「思春期小僧」
悠太(4年生)の母です。
いよいよ悠太が10歳の大台?に乗ります。
思春期の足音がどんどん大きくなり、複雑な思考や感情を持つ、いわゆる「お年頃」に差し掛かってきました。
親にとってはさらなる人間力ならぬ「親力」が試される段階が来る、とドキドキしております。
大人への階段を覗き見しつつ、かといって一歩を踏み出すにはイマイチ何かが足りない。まだ子どものままの自分をかかえ、とはいえ完全に親の庇護下にあった時期は終わり、親の干渉が鬱陶しくなりつつも、たまには構ってほしいと思う気持ちも残っている、思春期の始まりってそんな感じがします。
そんな思春期に差し掛かり、なんだか悠太も大変になっていくのだろうなあと想像する今、ぽろという存在が悠太にとってのサードプレイスになっているといいなと思うのです。
サードプレイスの定義は色々ありますが、家でも学校でもなく、息抜きできる、安心できる居場所と私は考えています。
ぴっぴから続くぽろには、悠太がオムツをして、よく泣いて、言葉が出るのもゆっくりで、体の発達もゆっくりで、まあ、何が言いたいかといえば、かっこつけもへったくれもない、やっと歩き始めたばかりの2歳からの悠太を知っている大人たちと仲間たちがいるわけです。
今更、思春期小僧としてかっこつけようにもあれこれ知られすぎています。そんな場所でなら、ありのままの自分になれるのかもしれないなと思うのです。
物心つくかつかないころから自分がそこにいて、今もなんだか居場所がある「ぽろ」。懐かしい森が、小さかった頃の自分を思い出させ、今の自分が大きくなったと思える場所。あれこれいろんなものや思いはとりあえず横に置いといて、渡り鳥が羽を休めるように、一息つき、誰の目も、なによりも親の目を気にすることなく好きなように過ごし、心を解き放ち、明日への力を吸収して、またゆっくりと歩き出す場所、悠太にとってぽろがそんな場所、サードプレイスになっていればいいなと願っています。
親である私にとって、ぽろはサードプレイスであると言えそうです。8年前から悠太の成長を共に見守ってくれている仲間がいてスタッフがいて、共に成長してきた子どもたちがいます。
あの子も思春期か
来年の悠太はあんな感じだろうか
去年の悠太はどうだったかな
と悠太の成長を思い、親子で歩いてきた道を思い、これから続いて行く道を思い、まあ、色々あるけど、とりあえず今日まではなんとかやってきた、そして明日からの日々にちょっとポジティブなエッセンスを混ぜながら思いをはせることができる、私にとってのぽろはそんな存在です。
果たして、悠太にとってのぽろはどんな場所なのでしょう?あえて聞かずにいます。ぽろへの思いそのものが既にサードプレイスとしての一端を担うなら、親は不可侵であったほうがいいのかなと。
思春期到来の悠太、それに向き合うというより背中を見てそっと追いかける親の私。どうなりますやら。
親子それぞれに息抜きの場所があるならきっと大丈夫、明日は明日の風が吹く、はず。